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<description>テクノロジーと身体　：　沖啓介</description>
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<title>想像力と百年</title>
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<description>Imagine theres no countries It isnt ha...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;Imagine there&#39;s no countries &lt;br /&gt;
It isn&#39;t hard to do&lt;br /&gt;
Nothing to kill or die for&lt;br /&gt;
And no religion too &lt;br /&gt;
Imagine all the people&lt;br /&gt;
Living life in peace&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「国が無いっていうことを想像してごらん、そんなに難しくないだろ　殺しあったり、死んだりするのも、宗教なんて無いのも、すべての人が平和に暮らしているのを想像してごらん」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;２１世紀というのは、国家の廃絶を実現する時代だ。脱国家。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ニューヨークのタイムズスクエアのカウントダウンのシーンの映像を、たまたま衛星中継放送で見ていたのだが、午前零時になる前に、ジョン・レノンのImagineが流れていた。&lt;br /&gt;
そのくらいに、当たり前に、国が無いことを想像して平和に暮らしたほうがいいと思うほうに、かなり多くの人の気持ちは向っていると思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;今年は、大逆事件１００周年にあたる。国家によって「明治天皇暗殺」をでっちあげられたこの事件は、刑死した人々の名誉回復が行われ、さらに名誉市民への推挙などになりつつある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;新年にあたって、１００年も前に自由と反国家のために亡くなった先達のことを思っていたい。想像する力は、いつか国家を廃絶し、もっと優れたシステムを生み出すと思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/12/post-bfd1.html">
<title>機械的転換と時間の尺度</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/12/post-bfd1.html</link>
<description>「センシティビティーの機械的転換が２０世紀に起こった」という、ベルナール・スティ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;「センシティビティーの機械的転換が２０世紀に起こった」という、ベルナール・スティグレールの指摘はたしかに正しい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一方で、ぼくは、センシティビティーは数万年も変わらないのではないかとも強く思う。その「機械的転換」のインパクトがわかるのは後の時代にわかるものだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;不変である後者の論理は、人類史で言えば、現生人類に近い種の人類が登場してからのことで、生物のセンシティビティーというとそのくらいのスパンで考えるべきもののではないかと思う。しかし、確かに前者のように、機械、技術という観点からすれば、１９世紀末期あたりからの進歩は、人類のセンシティビティーに大きな影響を与えつつある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;技術の観点からするとインターネットは、今後も文化に大きく影響を与えていくシステムだと思うが、さらに遺伝子技術、宇宙開発技術は、歴史として、まさに時代を画していくだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１０年では変わらない様に思えるが、１０年あれば大きく様変わりしているのに気づいたりする。時間の尺度というのは不思議なもので、長くも短くもある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この時間の不思議さを思いつつ、三千年の歴史を持つ古琴を弾いている年の暮れの朝。&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-12-29T10:03:08+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/12/post-3513.html">
<title>気候変動のデザイン</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/12/post-3513.html</link>
<description>国連気候変動枠組み条約第１５回締約国会議（ＣＯＰ１５）というのはどういう「デザイ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;国連気候変動枠組み条約第１５回締約国会議（ＣＯＰ１５）というのはどういう「デザイン」なのだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;このような問題の立て方が、どれだけ有効なのかはわからないが、ここのところ環境問題に関連するデザインの国際会議でデザインの可能性について討論していたので、何かしらの結論を導きだしたいものだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;事故が起こると、そのデザインが見えてくる。自動車事故は、運転手が原因の事故の様に考えられがちだが、それでもその自動車のデザインが関わっている。&lt;br /&gt;
ハードとしての機械部分だけでなく「操作マニュアル」の様な情報デザインの部分で欠陥がある場合もある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ドナルド・ノーマンの「誰のためのデザイン」には、ジェット機の操縦装置のデザインの欠陥が指摘されている。事故を多発させたジェット機には明らかにデザイン的なミス、つまり人間の操作感覚に反するような操作の仕方が組み込まれていた。しかしパイロットたちは、この不自然な操縦方法を「知識」として憶えることが要求される。結果的に事故は起こり、事故原因はパイロットの操縦ミスとされる。&lt;br /&gt;
同様なことは、電車事故にも起こって、多くの場合、運転手のせいにされるのだが、調査を行っていくと、会社が安全装置の設置を怠り、また過密ダイヤで生産性をあげようとし、さらに日常的に操作ミスの原因を運転手に押し付けてそれを克服させるように「教育」するなど、様々なことが見えてくる。この場合、あきらかに運行システム全体のデザインのミスであるのだが、事故の当初は運転手のミスとされることが多い。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;気候変動のような環境問題では、産業制度という、あまりにも大きな前提あるいはデザインがあるので、デザイナーたちはオルタナティブなデザインを対案として提起するのが一般的だ。それはそれで有効な面もあるだろう。&lt;br /&gt;
しかし、個別のオルタナティブなデザインでは、環境問題を起こすシステム全体に対処することはできない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;いまは、システム全体のデザインを総取り替えしないと、気候変動を生み出す原因に対処できないことをもっと考えるべきだろう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-12-15T04:33:47+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/12/post-c870.html">
<title>リシツキー</title>
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<description>アート、デザインの分野で活躍し、ロシアアバンギャルドの代表的なアーティストである...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;アート、デザインの分野で活躍し、ロシアアバンギャルドの代表的なアーティストであるリシツキーがデザインした大型写真を使ったディスプレイ・デザインの様式は、ナチスのデザインにも受け継がれているのは皮肉だが、興味深い事実だ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;このことに関して言えることは、集約すると次の点であるように思う：&lt;br /&gt;
１．ロシアアバンギャルドが、当時の文化の中心地であったベルリンなどのドイツのアートシーンに大きな影響を与えていた。&lt;br /&gt;
２．社会主義プロパガンダが目指したものが、国家社会主義の意図と気分的にもよく似ていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１の傾向は、バウハウスのデザインやアートに引き継がれていくのは周知のことだ。２に関しては、El Lissitzky: Beyond The Abstract Cabinetなど、リシツキーの作品の図版集の解説で指摘されていて、あらためて気がついたものだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;民主的なワイマール共和国を成立させたドイツの社会主義の勢力が、最終的に国家社会主義ナチスに敗北してしまったことは、デザインの観点からは無関係そうに見えてきた、こういうデザインの表現自体のどこかにその原因が見て取れるものがあるのではないだろうか。ワイマールのもとで生まれたバウハウスも、やはりナチスのもとで終焉させられる原因がそのデザインのなかにあるのだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;言ってみれば、人々をかきたて、まとめ、ある理想に向って束ねていくということは、社会主義もファシズムも共通するところであり、またそれが共同性のイメージを与え、どちらも「国家」に集中させていった点も共通している。ロシアの社会主義は結局、国家権力を強大化させていったものであり、それがずっと後に続いていった。国家は廃絶される方向には向わなかったのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;リシツキーの初期のデザイン作品のなかで、Pelikan Inkなどの典型的なグラフィック・デザインは、この人のデザイン能力のレベルやセンスをよく示していると思うし、構成主義などのアートとのやりとりのなかから、その後の彼のオリジナルなデザインのスタイルを生み出していった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ロシアアバンギャルドのアーティストたちは、最終的に不幸な終わり方をする人が多いのだが、リシツキーも自殺で生涯を閉じている。&lt;br /&gt;
政治と芸術が極限的に向かいあった２０世紀初頭のロシアの様な状況は、歴史のなかでも滅多にあるものではない。こういう特異なあり方が、強烈に２０世紀のアートの底流に流れつつも、一般化することには一線を画している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;リシツキーの生涯の作品の全体を見渡してみて、晩年のスターリンの肖像が出てくるものなどは、どのような気持ちで作っていたのだろうか。&lt;br /&gt;
ファシズムとスターリニズムという、２０世紀のなかでも最悪の政治体制と、リシツキーのデザイン・スタイルの変遷を検証するのは、社会とデザインのあり方の検証でもあるだろう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-12-05T21:12:18+09:00</dc:date>
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<title>日本の居住空間</title>
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<description>音楽家であり建築家であるクセナキスXenakisのMusic and Arhi...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;音楽家であり建築家であるクセナキスXenakisの&quot;Music and Arhitecture&quot;は、興味深い。そこでは建築空間と音ということの考察があり、またコンピュータ・ミュージックの初期に見られる技術的な試練がどんなものであったのかを読み取ることができる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ところでこの本のなかで、彼が初めて日本を訪れた時に見た日本人の居住空間に衝撃を覚えた話はおもしろい。西洋人が抱く家具という概念からすると、日本の家には家具もない。ベッドにあたるものは、折りたたんで昼間はしまってあるし、食事に使うテーブルも折りたたんである。これらのことが、クセナキスにはひどく印象的だったというのがうかがえる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;従来の日本の家の構造はもともとこのように不思議なのだが、経済の高度成長によって、従来の何もない構造が崩れ、そこにテレビ、ステレオから、ベッドやテーブルが入るようになって、狭い雑然とした空間になった。新たに日本の居住空間に入ってきたものたちは、折りたたむこともできず空間に設置された。それでも初期には、テレビが典型だが、覆いがかけられてカムフラージュされて、剥き出しのどぎつさは緩和されようとしていた。今から思い出すとテレビのデザインというのは、その日本の居住空間にいろいろと対応していたと言っていい。例えば、木目を活かした木材を使って、高級家具のようにデザインされたテレビが４０年ほど前だと思うが流行していた。テレビは、初期の珍しい装置から、箪笥のような「家具」として家のなかに置かれるようになったのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ぼくはこれからの日本の家の構造を変える要素は、高齢化社会だと思う。従来の日本の家は、高齢者が暮らすには問題が多い。例えば、多くの場合、畳の枚数を基準にして想定されてきた部屋の大きさは、車椅子の移動に向かないし、介護ベッドを置くには狭い。介護ということを考えると非常に使いにくい空間だ。&lt;br /&gt;
また自立した高齢者にとっても、現在の家の構造は使い勝手が悪いのではないかと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;７０年代あたりは、日本という国も若かったから、先を見ずに居住区間や居住地域を考えたから、今となっては使いにくい家屋となっている。団地が限界集落化していく危機が話題になったりするが、７０年代あたりに設計された団地や都市計画が、当時の若く健康な勤労者の身体にあわせていて、居住者の加齢をデザインのなかに含んでいなかった、あるいはデザイナーたちが先を考えてイメージできなかったことのつけがまわってきたとも言えるだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;サステナブルなデザインもそうだが、デザインには時間的な変化のプロセスをもっと考える必要があると思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-11-22T21:40:09+09:00</dc:date>
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<title>ライフスタイル</title>
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<description>世界の様々な地域、過去から未来までを範囲としたライフスタイルを考察していて、ここ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;世界の様々な地域、過去から未来までを範囲としたライフスタイルを考察していて、ここのところ気になる傾向は、意識と行動に地域や年代などでかなり差があることだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;日本のメディアでは紹介されないというか、状況としてもまるで別世界の話のようだが、欧米の若者はかなり先鋭化してきていて、その気分はアナーキーで、反権力的なものが強くなっている。&lt;br /&gt;
若者が火炎瓶を投げていたのは、日本では、すでに老齢期にさしかかった人たちが若いころにあったような過去の話だが、逆に欧米では、いまも旬だ。&lt;br /&gt;
黒いパーカーにキャップ、サングラスとマスクという、いわゆるBlack Blocのスタイルは、アナキスト、アナルコ・サンジカリストの若者達を象徴している。&lt;br /&gt;
反資本主義、反国家、反ファシズム、それに反貧困や様々なテーマが続く。そして自治。&lt;br /&gt;
なぜアナキズムなのかというと、あるべき社会状況を想定するよりも、最小限の問題から実感としてあるものから解決していくことを立脚点としているからだと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;object width=&quot;213&quot; height=&quot;172&quot;&gt;&lt;param name=&quot;movie&quot; value=&quot;http://www.youtube.com/v/L8yAL7SL_9g&amp;hl=en&amp;fs=1&amp;&quot;&gt;&lt;/param&gt;&lt;param name=&quot;allowFullScreen&quot; value=&quot;true&quot;&gt;&lt;/param&gt;&lt;param name=&quot;allowscriptaccess&quot; value=&quot;always&quot;&gt;&lt;/param&gt;&lt;embed src=&quot;http://www.youtube.com/v/L8yAL7SL_9g&amp;hl=en&amp;fs=1&amp;&quot; type=&quot;application/x-shockwave-flash&quot; allowscriptaccess=&quot;always&quot; allowfullscreen=&quot;true&quot; width=&quot;213&quot; height=&quot;172&quot;&gt;&lt;/embed&gt;&lt;/object&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;世界のライフスタイルは多様で、バブル経済の渦中にあるところもあるし、戦争の渦中にあるところもある。富豪がいれば餓死寸前の人もいる。場所だけでなく、年齢によっても、人々の意識は大きく異なるかもしれない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ベルリンの壁が崩壊して２０年経った。これは「自由」の勝利であると同時に、まるで資本主義の勝利のように言われたりするが、そういうものなのだろうか。&lt;br /&gt;
経済の上昇と、人々の暮らしはまた別のものになっている。企業の利益の回復の背景には、多くの失業者がいる。企業利益が経済の指標であるのはおかしい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;違うやりかた、違う世界のあり方を考える。あるいは違うライフスタイルも可能だ。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-11-10T22:46:29+09:00</dc:date>
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<title>言語の時空間</title>
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<description>最近やったエレクトロニクス系のコンサートでの演目のタイトルに禅語を使った。もとも...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;最近やったエレクトロニクス系のコンサートでの演目のタイトルに禅語を使った。もともとその行為にそれほどは大きな意味はなかったのだが、言葉というのは後に意味を持ってくるように思える。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;学生のころに、ちょうど現代美術の分野で、ソシュールの言語学のような思考方法が流行っていた。コンセプチュアル・アートの概念的な思考にはうってつけで、格好をつけた若いアーティストの文章には、当時のフランス哲学からの引用があるものが多く見られた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そんな時に、ゼミ（もちろん李禹煥ゼミ）で、論語などを子供のころからくり返し読み上げるという儒教文化が強い朝鮮、日本、中国での独特な学習法のことが話題にのぼった。&lt;br /&gt;
太古から伝えられる古典をくり返し読む、それも意味もわからずに読み始めて何度も何度もくり返す。「子曰く・・・」とリズムにのってくり返しているうちに、だんだんとその意味がわかってくる。そういうことで、難解で抽象的な事柄を理解し、憶えていくというやり方だ。そこにはソシュールが言っているような言葉の意味のあり方とは別のものがあるのではないかということを雑談していた。&lt;br /&gt;
この雑談のシリアスな結論はここでは問わないが、ぼくには意味のわからないものをくり返し唱えているうちに、徐々に内容を理解するというやり方には独特なリアリティーがあるように思えた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここのところ中国の古代文化について欧米の書き手が書いた本を読んでいるのだが、中国の古い文献を読み理解する能力は、漢字文化の中にあっても古文は漢文のみならず和文でも理解が難しくなっている自分からすると、想像以上にはるかに高い。&lt;br /&gt;
言語能力が高い人というのは確かにいるものだ。西洋の言語は、ラテン語などの共通の母体のようなものがあるので、そのなかで数ヶ国語が使えるというのは、あまり驚かないのだが、まったく体系の異なる言語も理解していく能力を持つ人には驚かされる。そういう人はヨーロッパ人に多いように思う。それは地理的な条件などから、異文化にさらされることが多いので培われたものなのかもしれない。しかしアフリカでも数種の異なる言語を容易く使える人に会ったし、アジアの言語と欧米の言語をいくつか使えるアジア人にも会っているから、非ヨーロッパ圏でも同じなのかもしれない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;言語に関しては、地理という空間軸のみならず、古文という時間軸からの観点でも、非常に気になるものだ。時空間的な広がりのなかにある言語。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/10/post-47d1.html">
<title>貧しいということ</title>
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<description>「驚くべきは現時の文明国における多数人の貧乏である」ということから、河上肇の「貧...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;「驚くべきは現時の文明国における多数人の貧乏である」ということから、河上肇の「貧乏物語」は始まっている。９０年以上も前に、「余が人類社会より貧乏を退治せんことを希望する」ことから、貧乏というものを経済学、哲学、生物学などの観点も含めて書いたこの本はとてもユニークなものだ。（人の脳の進化に関してもふれていて、「脳科学」と貧乏といってもよい観点もある。）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;貧乏というのは、開発途上や植民地状態にある国のみでなく、先進文明国にもあるのは、当時もひとつの驚きであったのだが、それはいまでも同様で、「経済大国」という言葉で語られてきた日本で、また貧乏がかなりの勢いで拡大している。もともとこの「経済大国」というのは、かなりのまやかしで、実際にヨーロッパなどと生活水準や社会保障制度を比べてみればかなり劣った状況のなかで暮らしているのだが、その点に気づかないまま受動的に社会を受け入れてきたとも言える。（いざ自民党政権が消えてしまえば、いかにくだらない社会制度の幻想のもとで暮らしてきていたのかがわかったりする。）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;最近、もっとも気になることは、この貧乏に対して立ち向かっていく方法が、見えにくいことだ。労働組合にも助けてもらえず、また「貧困ビジネス」（それもNPO法人の体裁をとっていたりする）の餌食にされたり、孤立無援のなかで行き場を失うような状況だ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、河上肇が百年近く前に考えた貧困の根絶ということは、これからはできるようになるのではないかと思う。政治的なことだけでなく、生き方の価値や文化などでも、変えられるし、変わらなければならない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「貧乏物語」は、貧乏を無くしていくことの態度を明確に示した名作で、現在でも示唆されることが多い。（ちなみにこれは著作権が切れているので、&lt;a href=&quot;http://www.aozora.gr.jp/cards/000250/card18353.html&quot;&gt;青空文庫のこのページ&lt;/a&gt;で読むことができる。）&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-10-22T09:24:17+09:00</dc:date>
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<title>文化と分極化</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/10/post-7742.html</link>
<description>以前は、ポップスのヒットチャートと言えばBillboard Top 100であっ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;以前は、ポップスのヒットチャートと言えばBillboard Top 100であったり、そういうヒット曲でしか、ポップスは語られることは少なかった。人々の嗜好も、これらのチャートからの影響は大きかったし、音楽産業は、これに乗っかっていれば良かった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ポップスの状況は、いまではとても多様になって、まさに千差万別であり、個人の嗜好によって細分化されている。ラジオの音楽放送では、チャンネルがあまりに少ないので、この状況をカバーすることはできないが、ネットラジオで世界中に散在する数百もある放送局の番組でさえも、納まりきらないように思えたりする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;これは音楽だけでなく、例えばアートでも同様だ。いまのアート・シーンは、多種多様で、あと一つのものが代表することはできないし、また過去のアートの歴史を紐とくときでさえも、そこに全体性は無く、細切れになったあり方から文脈として適合すると思われる部分だけを引用するしかない。あるいはまったく歴史的な背景などと関係なく発想するしかない。ただし、あらためて歴史を紐解くと、まったく新しい発想というのは、ほとんどなく、先人達が、時代が違おうとも何かしら同様な発想をしているものなのを思い知らされたりする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;さてアーティストとしてのぼくは、分極化された志向性のなかでやっていると思う。ただぼくの場合は、先端情報テクノロジーに関わっている反面、歴史というものにもどっぷりと浸かっている。それもかなり分極化された歴史にこだわっている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一方、歴史的なものでも、すっかり払拭されたのは、唯物弁証法的な歴史観だろう。これはカール・ポパーの影響だが。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;逆に、歴史的なもので、今のところ気になってしょうがないのは、東洋史つまり中国を中心とした古代東洋史だ。政治、経済的にも、日中韓という分極は、あと数十年はかなり意義のある極だと思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-10-14T08:37:53+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/10/post-cda4.html">
<title>臥遊</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/10/post-cda4.html</link>
<description>「臥遊」という、山水画鑑賞の世界で言われてきた言葉に惹かれている。 現実世界では...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;「臥遊」という、山水画鑑賞の世界で言われてきた言葉に惹かれている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;現実世界では山水に遊ぶことができないときに、絵画のなかの景色を見ながら、山水に遊ぶというもので、山水画が文人山水画へと質的に転化していった時代以降の言葉だ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;もともとは、老いと病をともに得た老画家がいまや訪れることができなくなった風光明媚な土地への思いを込めたことに始まったもののようだが、次第に絵画世界のなかで瀟湘の地などに思いをはせて遊ぶようにして絵画を描いたり鑑賞したりするようになっていった。日本の画家たちは、もとより瀟湘の地を訪れることなく、憧憬をもってこの地を描いたりしていたから、まさにヴァーチャル・リアリティをもってこの世界に没入していったと言えるだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ぼくがこの臥遊という概念に惹かれているのは、もとよりの東洋文化への関心ということだけではない。むしろ「臥せて遊ぶ」というその文字通りの意味でもある。そしてそれは、要介護となって、身動きもままならなくなった親のことと重なっている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;以前はまったく理解しなかった東洋画を好むようになったのには、文化的にもいろいろな局面があって、これだと一言に断じることはできないが、臥遊も一つの本質を表している。&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-10-06T10:31:30+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/09/post-a59d.html">
<title>東洋の再体系化</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/09/post-a59d.html</link>
<description>東洋の知というのは、おそらおく他の東洋の国々でも、評価される反面、大きく失われつ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;東洋の知というのは、おそらおく他の東洋の国々でも、評価される反面、大きく失われつつあるもののように思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここのところRobert Hans Van Gulikの本を精読することになっているのだが、彼が取り上げている東洋の文化や知というものの凄みというのは、われわれの日常に薄くは残っているが、かなりの部分が失われているもののように思う。彼の全集が中国でも出版されるという噂があるが、中国人にとっても意義のあるものだろう。&lt;br /&gt;
同様にJoseph Needhamの中国の科学に関する研究は、中国人でさえも失っていた太古の科学観から掘り起こしていったものだ。Needhamの方は、すでに中国でも最大の評価をくだされるようになっているが、彼なくしてこの大事業はできなかったものだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;オランダ人と英国人の学者によって、中国を中心とした東洋の知、文化、教養が再発見されたのは幸運なことだと思う。それは単に再発見というのではなくて、同時に再体系化されたということにも意義がある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;近代は、産業革命にしても、西洋で起こったことから始まって四百年を経過してきて、かなりの限界にぶち当たっている。それへの解決が東洋の過去の方法にあるわけではないが、再度見直すのは意義があるように思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;いろいろと気がついていないものが多々あり、再体系化することで効力を発揮できるようなものが東洋にあるのではないか。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-09-30T07:24:00+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/09/post-1f2a.html">
<title>文化の断層</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/09/post-1f2a.html</link>
<description>文化というのもデータ的にヴィジュアライズしてみると、かなり不思議なパターンが見え...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;文化というのもデータ的にヴィジュアライズしてみると、かなり不思議なパターンが見えてくるような気がする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;最近、一挙に進んでいる麻薬取締り強化ということと、その反対の極にある「ドラッグ・カルチュア」ということを考えてみても、きっぱりと線でわかれるような文化的な断層のようなものがあるに違いない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ウィリアム・バローズや、あるいはティモシー・リアリーなどというのは、これからどのように受け止められていくのだろうか？&lt;br /&gt;
そもそも１９６０年代の文化など、いったいどのように伝えていくようになるのだろうか？&lt;br /&gt;
例えばバロウズとアレン・ギンズバーグの、The Yage Letters（邦題「麻薬書簡」）などは、インディオたちの間で伝説的なYage vineを求めて南米を旅するもので、その「麻薬」は精神感応を高めるものであるという。ビートニク、ヒッピーと続く世代の文化は、そこの部分だけ、かなり特殊な色で分けられていくのだろうか？&lt;br /&gt;
もっと一般的な例で言えば、ザ・ビートルズだってLSDにはまっていたし、サイケデリックなサウンドや文化がもたらした影響は大きい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;もちろん文化の断層と呼んでいいほど大きな変化が突如として訪れたりするのには様々な原因がある。例えば、日本が明治時代の日清戦争に勝つまで、今でいうウクレレの様にポピュラーな庶民の中国楽器だった月琴は、その後は一挙に廃れたそうだ。（その頃の遺物（？）とも言うべき月琴がぼくのところにもある。この月琴は、現在の中国楽器店で売っている月琴とは異なり、日本製ではあるが中国の古き時代の形状を保ったものだ。）&lt;br /&gt;
中国文化は、先進文化として常に日本の歴史のなかにあったのだが、戦争の勝利と、西洋化は、文化的にかなり違った方向をもたらしたものだ。&lt;br /&gt;
逆におもしろいのは、この頃と言ってもわりと前からだが、テレビを見ていると、日本的なもの、たとえば美術の解説とか、時には時代劇のようなドラマで、バックグランドにかかっている音楽の楽器が、中国の二胡であることがよくある。すでに二胡は東洋と日本の文化が曖昧になったところで受け取られているから、気がつく人でないとわからない。そのくらいに「懐かしい」ような音になっている。これは輪郭がはっきりしない文化の断層の例かもしれない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;文化というのは、視覚化してみればかなり縞々になっているものだ。何かそこには物理力とか生物的なパターンがあるように思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-09-15T05:48:18+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/09/post-6819.html">
<title>「滑稽な」科学</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/09/post-6819.html</link>
<description>自分の感覚のあり方を客観的に知ることは難しい。だが、意識すれば経験的にわかったり...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;自分の感覚のあり方を客観的に知ることは難しい。だが、意識すれば経験的にわかったりすることもある。しかし、どのようにしても、自分のいる時代の時代性というようなものの及ぼす影響から免れることはできないのではないかと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;科学の歴史をギリシャ時代から見ていく時、現在から考えるととてもプリミティブな思想であっても、科学的な論理性をもったものが抽出できる。ギリシャ初期の概念である「アルケー」は万物の根源であり、普遍の物質として考えられるが、それは物理学的な思考のそれこそ「根源」となった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;科学というのは、近代の概念であり、それまでは「自然哲学」というような概念であり、自然つまりnatureという言葉には、同時に性格などといった人間についての事柄が含まれるように、現代の自然科学と人倫的なものがあわさった領域だ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;現在の最先端の科学研究も、時代が過ぎていけば、古めかしいものになっていく。科学技術などは、もっと顕著に、先端のロボットなどもそのうちには、江戸時代のからくり人形を見るように微笑ましいものになるだろうし、NASAの宇宙飛行士による人類の月への第一歩の、月面をぴょんぴょんと跳ねまわる映像と、それこそジョルジュ・メリエスの１９０２年に製作された「月世界旅行」とは大差がなくなるだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;科学史の書籍に挿入されている図版を見るのは、おもしろい。あるものは、ずっと過去のものでも、現在でも通用するほどの科学的な厳密さや正確さを持っている。しかし、かなり多くのものは、当時の科学に対する観念の、なにか怪しげな（？）ものや、未熟なものが、真に科学的なものと同じ画面に描かれていて、滑稽であったり、微笑ましかったりする。例えば、真剣な科学的な実験を表す図であっても、周囲にはあまり関係のなさそうな飾りがほどこされていたりする。それでも当時はたいへん大真面目に実験されていたものだと思われる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;科学の一側面にはそういう滑稽さとかおかしみがあるものだ。この滑稽さを集めてみて、見てみたらおもしろそうだ。科学のなかの、あまり取り上げられていない要素があきらかになるような気がする。（「科学と芸術」の授業のエピソードの一つ）&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-09-05T22:30:32+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/08/post-da67.html">
<title>政治のヴィジュアライゼーション</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/08/post-da67.html</link>
<description>科学などでやっているヴィジュアライゼーションの手法を政治にももっと応用してみると...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;科学などでやっているヴィジュアライゼーションの手法を政治にももっと応用してみるとわかってくるものがあるかもしれない。現在では、政党支持率のグラフやチャートが一般的だが、あれらはむしろ人気投票みたいなもので、政策レベルで視覚化しているとは言えない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;政党の社会的な特性はどこの国でも弱くなっているという。例えば、ヨーロッパで見られたような労働党や社会民主党系の政権が長く続くと、それらが本来は労働者と労働組合を基礎にしていた政党であるという性質は弱くなり、政党色などは薄れていく。政策面では、若干の違いがあっても保守党と労働党との差は、ほとんどなくなっていく。&lt;br /&gt;
だからと言って、階級みたいなものが無くなるかというと、ある時はそれが不明確になるが、不況などに直面するとやはり階級差とか格差のようなものが意識されたりする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;現在の社会はあるフレームができていて、それから外れるということはできなくなっている。そのフレームは、ほとんどが無形で無意識であるかのようだが、ある「合意」のような形で存在する。それには様々な背景があって、身近な社会の制度や規範などの場合もあるが、経済の国際競争力のようなものであったりする。&lt;br /&gt;
共産党であっても、政治を遂行するには、このフレームから外れることはできなくなっていて、例えば自国経済のあり方を無視することはできない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;もっとも政治というのは、ゲーム理論的なバランスの上に成り立っているので、政策論争というのは、まさにそれを反映している。日曜日にはいくつかのテレビ番組が政策論争を売りにした討論番組があって、だいたい同じ顔ぶれが、短い間に放送局を移動して、同じようなことを繰り返し述べている。そこで重要なのは、いかに情報、データを利用するかということと、各政党の立場を、ゲーム理論的に整理して語るかということになっている。共産党とか社民党は、政権につくことはまずありえないから（と本人達も自覚したうえで）、いかに党勢を伸ばすかということのタクティクスを実行しているようなものだ。（それは、かつては総評があったり、春闘にそれなりに決定的な力があったような構造、つまり自由民主党と日本社会党が二大政党による５５年体制のようなものが社会的にも完全に崩れているというような背景があるからだが。）&lt;br /&gt;
これは先に述べた「フレーム」の一つでもあって、これは議会制民主主義の枠組みなどではなくて（一見するとそのように見えるかもしれないが）、メディア情報戦略という、広告などとも共通した手法の範疇におさまっているものだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それでは政治のデータのヴィジュアライゼーションのポイントは何かというならば、ミニマルな部分まで入り込んだ政治、経済、社会状況あるいは日常的で個人的な微妙な行為からデータを選んで見ていくことだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「政権交代」は実現したが、政党の議席獲得数からだけでは、見えるものは少ない。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-08-31T07:34:37+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/08/post-8177.html">
<title>メディアとアバンギャルド</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/08/post-8177.html</link>
<description>２０世紀はメディアの世紀だ。映画、ラジオ、テレビ、ビデオ、インターネットと１００...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;２０世紀はメディアの世紀だ。映画、ラジオ、テレビ、ビデオ、インターネットと１００年の間に登場してきた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;あらためてロシア・アバンギャルドのアーティストたちの意識に注目してみると、例えば、ジガ・ベルトフにとっての「ラジオ」は、メディア、それもビデオ・アートや、ネット出現以後のデジタル系のアーティストたちの考えによく似た意識があるのに驚く。つまり、マスメディアとなっていくラジオではなく、インディペンデントなメディアのあり方として現代に共通している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;２８日から始まる&lt;a href=&quot;http://www.tokorozawa-biennial.com/&quot;&gt;第一回所沢ビエンナーレ「引込線」&lt;/a&gt;では、可変的な形状の建築的な構造をテーマにしていたのだが、そのイメージの原型として、タトリンのタワー、つまり彼の第三インターナショナル記念碑から発想した立体を布製のバルーンで制作した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;もともと関心が高かったロシア・アバンギャルドだが、今回は、あらためてNorbert Lyntonが書いた&quot;Tatlin&#39;s Tower: Monument to Revolution&quot;などの文献や、Symphony of Sirensのようなサウンド、詩などの表現を調べたりしていたのだが、これまでに知っていた知識よりも、ロシア・アバンギャルドの内容ははるかに広大で、しかもきわめて先駆的、実験的であったことに気づかされている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;もっとこのアバンギャルドは研究するべきものがあるように思う。２０世紀の実験的なアートというのは、ここで停止したままだと言ってもいい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;object width=&quot;212&quot; height=&quot;172&quot;&gt;&lt;param name=&quot;movie&quot; value=&quot;http://www.youtube.com/v/lwuPCDhpcfY&amp;hl=en&amp;fs=1&amp;&quot;&gt;&lt;/param&gt;&lt;param name=&quot;allowFullScreen&quot; value=&quot;true&quot;&gt;&lt;/param&gt;&lt;param name=&quot;allowscriptaccess&quot; value=&quot;always&quot;&gt;&lt;/param&gt;&lt;embed src=&quot;http://www.youtube.com/v/lwuPCDhpcfY&amp;hl=en&amp;fs=1&amp;&quot; type=&quot;application/x-shockwave-flash&quot; allowscriptaccess=&quot;always&quot; allowfullscreen=&quot;true&quot; width=&quot;212&quot; height=&quot;172&quot;&gt;&lt;/embed&gt;&lt;/object&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ところで、建造されることのなかったタトリンの塔のＣＧによるシミュレーション映像が、上の様にYoutubeで見られるというのは、２１世紀的なのかもしれない。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-08-24T23:30:28+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/08/post-df7e.html">
<title>琵琶法師</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/08/post-df7e.html</link>
<description>失われていく文化は数知れない。失われていく文化のなかで保存できるものは限られてい...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;失われていく文化は数知れない。失われていく文化のなかで保存できるものは限られている。また他方で、新たに生まれてくる文化というのも多数存在している。&lt;br /&gt;
自分が主に活動の場とするのは後者だが、一方で前者、つまり歴史のなかで失われていくものにもとても関心がある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;時間というものを、感覚的に語ると、前に進む速度は、せいぜい自転車か、早くてもバスに乗って進んでいくぐらいのもので、周囲の景色を眺めている余裕もある。ところが、過去を振り返ると、ゴーッと轟音をたてて水が渦まくように流れすぎていくように感じる。身近な過去は、おーいと言えば手が届きそうでありながら、その流れのなかでみるみるうちに遠ざかっていく。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここのところ、琵琶法師についての本を読んだり、調べたりした。そのきっかけは、「琵琶法師　山鹿良之」という映画を観たことでもある。この映画は、上映会を主催した方と、以前、高円寺のグッドマンで一緒に演奏したことから、案内をいただいた。もともと琵琶という楽器については興味を持っていたから、関心があった。しかし、山鹿良之（やましかよしゆき）さんのことは、まったく知らなかった。彼は熊本県出身で、「最後の琵琶法師」と呼ばれた肥後琵琶の演奏者だ。&lt;br /&gt;
彼の演奏そのものも味わい深いものだが、この映画が撮影された９０年代初頭には、すでに数えるほどにしか存在しなくなっていた肥後琵琶の奏者の一人だった。彼が歌いあげることができる物語、音曲は、時間にすると膨大な時間となる。過去から続く盲僧琵琶の流れにあって、後から知ったことだが、明治以後には琵琶法師は、全国的に消滅していったものが、九州では家庭で行われる宗教的な儀式などのために必要であったために、それを背景に僅かに残ってきたものだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;過去の歴史についての知識の修得は時間の無駄ではないかと思うほど、これまでに存在しなかったものが、どんどんと登場する現代に於いて、はたして過去のものを知ったり、残すことに努力することにどれだけ意義があるのか断定するのは難しいかもしれない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ただぼくは歴史の理解について一つ原則としていることがあって、それはある行為がどのような思考の結果で生まれたのかを理解するということだ。哲学や思想というものは、いまでは大量の書物、しかも異なる言語で書かれたものなどを読まない限り、理解しがたいものだが、思考の軌跡をシステム的に理解できるような方法ができたらどんなに素晴らしいものかと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;古代ギリシャの科学観から現代までを貫いてみることを中心に、アート、建築、デザイン分野での論文を書くための調べものをしているのだが、それがすっきりとした一本線ではなくて、多様に複雑にもつれこんだ思索の結果として科学ができてきたのがわかる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;琵琶法師の語りの響きにもかなり複雑な文化史を感じる。ただ失われていくものの前では自分はただ無力だ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だがそれは仕方がないことだろうと思う。現在は、強大な影響力がある新聞やテレビのようなメディアも消失するのは時間の問題であり、かつて琵琶法師がいたと語るように、それらのメディアも哀愁を持って語られる時期がくるだろう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-08-14T21:53:17+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/08/post-af1f.html">
<title>思考のフレーム</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/08/post-af1f.html</link>
<description>オバマ大統領が、２１世紀をリードするのは、アメリカと中国だと語ったが、国家レベル...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;オバマ大統領が、２１世紀をリードするのは、アメリカと中国だと語ったが、国家レベルで考えるのは２０世紀的で常套的な思考方法だ。そして、当然のことながら、このコメントは、多分に政治的なものだ。&lt;br /&gt;
大きな国家が、世界をリードしていくというパターンは、次第に崩れていき、国家間のやりとりよりは、非政府的かつ国際的な方法が、より影響力を持ってくる。非現実的なように思えるかもしれないが、強大な国家というのは、存在しにくくなるし、むしろ邪魔なものとなってくるだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;またオバマ大統領が、核兵器廃絶を宣言したことも興味深い。核兵器廃絶というのは、単に平和主義の観点からだけでなく、生物の知能発達の結果として、自己破滅的な方法を認識し解決できるかどうかということからしても関心がある。地球のように宇宙にごく稀に生命が生まれ、それが知能をもって発達していって、それがどこまで発達できるかというのは、戦争や環境問題といった、自分達を破滅させるような思考を克服できるかどうかにかかっている。そしてそれは少数の人がそのことを認識してもだめで、人類的な認識にならないと解決はできないからだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;２１世紀をリードするのは、コンピュータ技術の世界で拡大しているオープンソース的な思考方法だと思う。オープンソースという方法は、それが生み出された情報技術の分野でも、まだ１０年経つかどうかといったものだから、ほかの分野にまで応用されるとは、まだ考えにくいかもしれない。しかし、これは現在では、まだ情報技術領域に限定された方法だが、そこには思想があり、それは少しずつでも現実に影響を与えつつある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「情報公開」というのは、次第に当たり前になってきているシステムだが、それでも社会主義や旧社会主義の中央集権的な国家ではまだ考えられないものでもある。組織情報の「透明性」というのは、組織維持の究極かつ現実的な選択であるが、それは国家という仕組みにも当てはまるものだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ぼくはだんだんと僅かだが、人間の思考のフレームがおぼろげにでも見えてきているのではないかと思う。半世紀前なら、国家の宣伝にのせられて世界戦争をやっていた。だがいまでもイラク戦争のように国家の宣伝で戦争を支持する勢力が強まることもあるが、それも最後のレッスンになったようにも思える。（ほんとうは、ベトナムが最後のレッスンだと思っていたのだが・・・）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;長崎への原爆投下から６４年目。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-08-09T07:13:36+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/07/post-8e2c.html">
<title>ダリと科学</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/07/post-8e2c.html</link>
<description>狩猟民族には、狩猟の神、農耕民族には、農耕の神がいる。またモンスーン地域には、モ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;狩猟民族には、狩猟の神、農耕民族には、農耕の神がいる。またモンスーン地域には、モンスーンの神、砂漠には砂漠の神がいる。&lt;br /&gt;
もともと神というのは、不可知なものへの畏れから生じたものだ。またそれらが原型となって、現代まで続く宗教を形成していった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;高名な科学者が敬虔なキリスト教信者だというような話を聞くと、その科学的な言説まで信じられなくなるのは、自分が不遜な無神論者だからなのかもしれないが、原始的な精神の表れである宗教の発生のメカニズムを考慮しておかない科学的な理論が現代で存在するのはおかしいと思う。&lt;br /&gt;
科学か魔術や神秘的なものと交感するようなことが近代科学の曙光の時代にあったのはわかるし、またかつては当時の科学者が教会に所属していたのもありうることだ。&lt;br /&gt;
だが、例えば、宇宙の広さや時間を考える時の抽象的な思考のなかで、ぼくは神を感じることはできない。遺伝子のメカニズムも同じだ。&lt;br /&gt;
しかし、これは裏腹の関係にあるもので、宇宙の始まりのビッグバンにも、ＤＮＡの仕組みにも、神の意志を感じるというのが、現代の宗教でもある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「科学と芸術」と「科学と宗教」というテーマは、重なりあっている部分がある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;サルバトル・ダリについてののドキュメンタリー映画&lt;a href=&quot;http://www.amazon.co.jp/%E2%80%95%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%84%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%9F%E7%94%9F%E6%B6%AF-%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AA-%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%82%B8%E3%83%B3-%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%BBD%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%88%E3%82%BD%E3%83%B3-%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%95/dp/B000VKKWI4&quot;&gt;「ダリ ―科学を追い求めた生涯」&lt;/a&gt;は、この芸術家がいかに科学にのめりこんで、芸術表現の概念に採り入れたのかということを教えてくれる。この映画では、イリヤ・プリゴジンなどの科学者が多数参加し、ダリの作品や彼との交流について語っているのだが、科学にインスパイアされたダリとその作品に、科学者が逆にインスパイアされ、敬意をもって接しているのが興味深い。&lt;br /&gt;
ダリの芸術がこれだけ先端の科学に影響されていたことは、この映画で初めて知ったのだが、この事実があまり知られていないのは、多くの美術批評が科学を理解していなからではないかと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この映画のなかで、ＤＮＡの構造を発見したワトソンが登場するのだが、彼は、ダリはＤＮＡに神の存在を見るのだが、むしろＤＮＡは、神の不在を表しているのだと語っている。&lt;br /&gt;
ワトソンは、不遜さも含めて、科学者として神の不在を語っているのだが、しかし、ＤＮＡも宇宙の創造に関するビッグバン説も、「神の御業」として採り入れてしまう宗派も存在している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;これは当然のことで、不可知なものへの畏れから神が登場するならば、砂漠の神から絶対神を創り出したユダヤ教－キリスト教の様な流れは、現在なら宇宙の神を見出すのは当然のことだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ところでダリの場合は、ぼくの思うには、彼の絵画作品の宗教的な要素は、単に「絵柄」に過ぎなかったのではなかったのではないだろうか。つまり、神の存在と、宗教画の崇高さとは、画家にとっては画題として別の興味対象なのだ。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-07-26T06:06:16+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/07/post-4cf5.html">
<title>非科学あるいは古代科学観の科学的イメージ</title>
<link>http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2009/07/post-4cf5.html</link>
<description>「魔術」が、近代科学の成立の、ある一面を支えたとことは、よく指摘されることだ。あ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;「魔術」が、近代科学の成立の、ある一面を支えたとことは、よく指摘されることだ。あるいは科学史に名を残す科学者の思想や営為のなかに魔術的な要素を見つけたりするもので、ニュートンなどは、まさに「最後の魔術師」（ケインズ）と呼ぶにふさわしい面がある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一方、未だに科学が発達しない時代の、初源的な世界観、物質観が、現代に蘇生されるようなことが起きている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;数学者、コンピュータサイエンティスト、小説家であるルディ・ラッカーRudy Ruckerの新しい小説が&quot;Hylozoilc&quot;という。このことに気づいたのは、ぼくがカナダのアーティストPhilip Beesleyによる作品&quot;Hylozoic Soil&quot;を見て、HylozoicあるいはHylozismという言葉に興味をおぼえたからだ。ルディ・ラッカーも、この言葉から発想するものがあるのだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;object width=&quot;213&quot; height=&quot;172&quot;&gt;&lt;param name=&quot;movie&quot; value=&quot;http://www.youtube.com/v/Na8AX-AXYLs&amp;hl=en&amp;fs=1&amp;&quot;&gt;&lt;/param&gt;&lt;param name=&quot;allowFullScreen&quot; value=&quot;true&quot;&gt;&lt;/param&gt;&lt;param name=&quot;allowscriptaccess&quot; value=&quot;always&quot;&gt;&lt;/param&gt;&lt;embed src=&quot;http://www.youtube.com/v/Na8AX-AXYLs&amp;hl=en&amp;fs=1&amp;&quot; type=&quot;application/x-shockwave-flash&quot; allowscriptaccess=&quot;always&quot; allowfullscreen=&quot;true&quot; width=&quot;213&quot; height=&quot;172&quot;&gt;&lt;/embed&gt;&lt;/object&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;Hylozismは、「物活論」と訳されるが、古代ギリシャ哲学者のターレスなどが、物質は無機的なものではなく、それ自体に生命力や霊魂をもつものとする有機的生命的自然観だ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;たしかに磁石のように磁力を有するもの、あるいは摩擦すると静電気を起こして、他のものを引きつけたりするようなものなど、特別な性質などを持った物質にふれると、それ自体に特殊な力を秘めていると思うのは、当然のことだろう。これは、近代科学の勃興期のころまで続いている傾向で、ニュートンが魔術師の様であっても、それほど驚くに値するものでもない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;Hylozoicという言葉が、小説や視覚芸術で通用することの背景には、この言葉が本来持っていたもの以上の、新たな物質観が生まれているように感じる。&lt;br /&gt;
物質に生命があると感じるような感覚というのは、これから新たなリアリティーを持ってくるのではないだろうか。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-07-14T21:31:24+09:00</dc:date>
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<title>ラジカルネーチャー</title>
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<content:encoded>&lt;p&gt;物質観にも、歴史性があるのは当然だが、映像が登場してから、大きく物質観が変わったのではないかと考えられる。ただ、これは、心理的なものに結びついていて、客観化しにくいものかもしれない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;夢は、テレビが白黒テレビであった時、モノクロであると言われていた。たしかに、ぼくもモノクロ・テレビの時には、モノクロの夢を見ていたように思う。ぼくは、このことがやや気になっていたのだが、今は、モノクロで夢を見ることは無い。モノクロのテレビのイメージを知っている人というのは、少数になってしまったので、検証しきれないかもしれない。&lt;br /&gt;
どうもわりと多くの人は、モノクロの夢を見ていたのだが、テレビがカラー化してからは、カラーで夢を見る人が半数を越えるともいう。またカラーの夢を見るのは、特殊だというような話もある。夢はもともとモノクロで、思い出すときに色がつくという考えもあるという。これらは自分の経験以外では、他人に聞くしかなく、どれだけ一般性があるのかを検証するのは難しいただ徐々にモノクロの夢を見る人は少なくなるのだろうか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;こういう人工環境が、人間が本来あるはずのものを変えていくということがどれだけあるのだろうか？上の話では、モノクロテレビが無い、あるいは電気などが無い時代の夢はどうであったのだろうか？&lt;br /&gt;
これまで様々な技術の出現によって、人間はものの考え方のみならず、肉体機能も変えてきた。だが、それがどのように変わってきたかは、あまり考えられていないかもしれない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここのところ新しい建築の形状が変わってきて、それがＣＧ、デジタル映像の影響であるのは明白なことであり、それらの設計にコンピュータは欠かせないのだが、単に技術のみならず、思想とか物質観もコンピュータなどの技術の影響を受けていると思う。こういう感覚は、だんだんと普通の人々の感覚にも浸透していっている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;最近、アーキグラムやアントファームなどの建築やアートの資料を集めて見ていた。イギリスでは、バクミンスター・フラーやスミッソンなどの６０年代のアートから現代のものまでにフォーカスを当てて、環境との関わりを考えていく&lt;a href=&quot;http://barbican.org.uk/radical_nature/home&quot;&gt;Radical Nature–Art and Architecture for a Changing Planet 1969–2009&lt;/a&gt; という展覧会、シンポジウムが開催されているという。この展覧会で紹介されていて、これまでもイメージとしては知っていたが、詳細を知らなかった&lt;a href=&quot;http://chelseaartmuseum.org/exhibits/2004/agnesdenes/gallery/AgnesDenes_images5.html&quot;&gt;Agnes Denes&lt;/a&gt;の、ニューヨークのバッテリーパークで実際に畑を耕した作品などは、あらためて興味深いものだ。またここからRestoration Ecologyという考えにもつながっていく。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;環境とデザインあるいはアートというのは、自分の関わる重要な領域の一つだが、人工と自然という関係で、もっと考える必要があるように思う。自然と反自然の間の多様性をもっと考えなければ。&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アートとテクノロジー</dc:subject>

<dc:creator>dazro</dc:creator>
<dc:date>2009-07-04T23:48:00+09:00</dc:date>
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