2016.11.30

離騒

この季節に、古琴の曲を選ぶ。つまり来年の秋の重陽の琴会に向けて稽古する曲を選ぶ。そしてその曲のイメージを膨らませていく。

昨年は、「鴎鵞忘機」を選んだ。この曲が意味するタオの世界をイメージしながら、稽古していった。自然は人間が欲を持って接すると離れていってしまうことを、漁師と水鳥たちのつながりとその破綻という逸話を題材にしたものだ。
さて、それでこれから何を演奏しようかと考えてみて、自分の演奏の力量では弾けないのではないかと思える曲も候補のなかに入れてみる。
それで思い浮かんだのは「離騒」という曲で、ぼくにとっては古琴という楽器との出会いにも妙につながっている。

旅先の北京で、故宮の近くでたまたま入った茶館で、初めてこの楽器に出会った。それはとても運命的な出会いとなったのだが、その茶館の名が、まさに「離騒」。

「離騒」は紀元前3〜4世紀の古代中国の春秋戦国時代の楚の政治家、詩人の屈原が書いた「楚辞」のなかにあるものだ。彼は敵対する秦の謀略を見抜き、懐柔される懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して汨羅江(べきらこう)で入水した。離騒は国を憂う人たちの間で愛されてきた。

ところで「青年日本の歌」(あるいは「昭和維新の歌」)として、右翼の街宣車でよく流されている曲の歌詞は、まさにこの屈原のエピソードにちなんだものだ。作詞は、戦前の五一五事件、戦後の三無事件のクーデターに関与した三上卓による。
歌詞の一番が「汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ」で始まり、十番では:

   やめよ離騒の一悲曲
   悲歌慷慨の日は去りぬ
   われらが剣今こそは
   廓清の血に躍るかな

となっている。

実はこの歌は、明治から昭和に生きた詩人土井晩翠の「赤壁図に題す」から持ってきたものと考えられている。
 
   首陽の蕨手に握り
   汨羅の水にいざ釣らむ
   やめよ離騒の一悲曲
   造化無尽の蔵のうち
   我に飛仙の術はあり。

しかし、勇ましい歌であるのは確かだ。

屈原を主人公とする中国古代のエピソードとその文学に自分の心象風景を求めるというのは、現在ではあまり考えられない手法ではあるが、漢籍を読破することが知的価値とリアリティを持っていた時代だからこそできたことだろう。

しかし、自分がこの曲「離騒」を選び演奏することに、屈原の話は果たしてどのように影響しているのだろうか?

いまはこの曲の冒頭を飾る泛音 ( はんおん ) と呼ばれるハーモニクスに時空間の移ろいを感じている。

古琴の名演奏家管平湖が演奏する「離騒」:


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2015.12.31

人類に星間移動はできるのだろうか?

極端に言えば、テロは世界を変化させる媒質かもしれない。テロが起こる背景を考えると、現在の世界の構造が見えてくる。
テロは極度に純度を増した少数派による政治の行使である。内容を問わず、これまでの歴史のどのような場面にもあてはまってきたのではないかと思う。

ISの一連のテロが見せているものは、言わば世界の巨大な裂け目であり、その深さは計りしれない。その裂け目の大きさに、あらためて世界は戦慄している。これまでの国家観や、国家に付随する制度は無力であり、さらに国家連合である国連も無力である。国連はこのようなテロに直接的には対処することはできない。
もしもこの問題の解決を期待できるものがあるとしたら、経済、文化、教育、医療などであり、それこそ従来にはない社会性をもった人々のつながりでしかない。いっぽう、まったく無力なのは、軍事や国家戦略のようなものだ。中東の危機は、19世紀から20世紀を通じて進行してきたさまざまな国家的な思惑の結果によるものだ。

2015年は、この四半世紀の間に生じてきた大きな裂け目がこれまでにない形で露出してきた時期だっただろう。
日本政府は、憲法解釈を無理やり変えて、集団安全保障へと枠組みを変えた。「中国脅威論」や「領土問題」という、20世紀的な心情や、国家間の軍事協力の必要性など様々な理由をつけたものだ。しかし、テロという観点からすれば、集団安全保障は、テロに対処できない。なぜなら国家間戦争ではないからだ。
テロは、本来は地域に限定されたものだ。だが、いまやテロは、国際テロになってしまった。それは、旧来の地域概念のスケールが大きく変わったことを示している。

把握しにくい国際問題の位相をどのようにとらえるかは、これからの世界を考察するうえで重要なことだ。テロの余韻が冷めない時期に開催されたCOP21(第21回国連気候変動枠組み条約締約国会議)が、18年ぶりに温暖化防止などについて合意に達した。このことにはいくつかの背景があるだろう。一つは、温暖化ガスを出さない技術の展望が以前よりも見えてきたことである。だが、この合意へと向かわせたもう一つの要因は、実は数週間前に起こったテロであると言ってもいいだろう。
世界は貧富の差が大きい。人口比でみれば、7人に1人の割合にすぎない先進国の10億人にほとんどの富が集中し、逆に同じ割合の人口は、飢餓と隣り合わせにある。電気も無い20億人の人々に、エネルギー消費からの温暖化ガスの削減を強制するのはもともと無理な話だ。さらに言えば、飢餓と隣り合わせにある人たちの絶望的な状況を考えれば、わずかな可能性にでも賭けるしかない。

われわれは、世界をかなり包括的に見なければならないところに来ているのだ。政治は、大国でも、また少数派のさまざまな政治形態であっても、それ自体で解決するものはなく、多くは政治力学的にしか決着がつけられてしまう。(政治力学だけで決着が図られようとしているのは、国内では沖縄と日本政府との関係に見られるだろう。)

COP21は「産業革命」以来の歴史を顧みることとなった。産業革命以後の生産様式は化石燃料に依存し、温暖化を促進してきた。そしてさらに先進国が植民地を世界に広げていった歴史でもある。産業革命以後の二百数十年間をやっととらえられるところで合意が形成されるようになったのが、今回の国際会議の意義なのだ。

「宇宙船地球号」は、建築家であり思想家であるバクミンスター・フラーがすでに半世紀も前に語った概念だ。地球についてのイメージとして的確なものの一つだ。このレベルでの認識に到達しなければ、われわれの未来はない。
実際の宇宙船で宇宙空間を移動するようになるには、まだ時間があるだろう。だがフラーによって定義された宇宙船である「地球号」は、ずっと宇宙を移動している。

我々は、あらためて星間移動する宇宙船のイメージを強く持つべきだろう。世界中の宇宙船乗組員にエネルギーと食糧を公平にいきわたらせることから始めよう。


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2015.05.31

参加可能な行政

いまの政府というのは「自動販売機政府」(原文ではvending machine government)というようなもので、われわれはお金を入れて、品物が出てくるのを待っていて、出てこないとドンドンと叩いたり、揺らしたりして抗議するというようなものだとをティム・オライリーが言っている。

彼が2009年に言いだした"Government 2.0"ということを、ぼくはここに来て現実的で切実な方法としてやっと理解するようになった。それまであまりピンと来なかったのだが、それは自分だけでなく、現在はシカゴ市で実際にオープン・ガバメントの方法を実践している担当者も、最初はわからなかったと述べているから、そんなものかもしれない。

彼の考えの骨子ともいうべき"Government as a platform"、つまり「プラットフォームとしての行政」ということ、土台としての行政はということを考えていくと、あらためて理解が進んでいく。(オライリーが言うプラットフォームは、厳密にはコンピュータ・プラットフォームがモデルだ。そのコンピュータ・プラットフォームは、オープン・ソースやこれまでにないさまざまな新しい方法が生み出されているインターネットも含めたプラットフォームのことだ。)
国の政府から、市町村にいたる行政(英語のgovernmentは、政府であり、行政である)は、本来は国民や住民にサービスを提供するものである。様々なサービスを実行していくのが「ガバメント(行政)」であるわけだ。そこでは、人々(住民、国民)は税金という形でお金を払い、適切で効率のよいサービスを受ける。

このことに関しては、政治上の保守派も革新派もまだ理解は未熟である。多くの一般の人々も同様なので、政府から地方自治体に至るまで、行政は、政治の舞台や政争の場ぐらいにしか理解されていないことが多い。
公共予算をどのように使うかによって、保守と革新の違いや、アメリカでは「大きな政府」と「小さな政府」という伝統的な民主党、共和党の論争があるのだが、それらは政治の立場や見解の違いにすぎない。
そこで抜け落ちているのは、オープンなデータの公開と、人々の行政への参加のシステムだ。そしてニーズに応じて対処する行政サービスを向上していくことだ。行政規模の大小は、オープンな方法で決めた結果に基づくものであり、政府の大小は議論の課題というよりも、ニーズに応じているかどうかで決まるものだ。
「行政はプラトフォーム」であるから、合理的にその機能を発揮できるようにするだけのことなのだ。(ところが自治体レベルでも、このような考え方は欠落しがちだ。最近の大阪での「都構想」の賛否を問う投票では、推進派も批判派もこういう観点がないままねじれた政争として進行したように見える。まず大阪に必要なのは、オープンデータとオープンガバメントと住民参加ではないのだろうか?)

それは「誰もが行政への参加者であると、選挙日だけでなく、いつでも感じる」(トーマス・ジェファーソン)ような行政への参加の再建を、インターネットが可能にできるという希望なのだとオライリーは言っている、

オープン・ガバメントの方法は、世界のみならず、日本国内でもゆっくりだが浸透してきている。

日本のオープンガバメント度は30位:
http://geography.oii.ox.ac.uk/?page=open-data-index

日本政府のオープンガバメント:
http://www.data.go.jp/

日本のオープンガバメントラボ:
http://openlabs.go.jp/

英国政府のオープンガバメント:
http://data.gov.uk/

アメリカ政府のオープンガバメント:
http://www.data.gov/

このイメージビデオは、シンプルだが、世界に広がるオープン・ガバメントの状況を物語っている:

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2015.03.31

RE/membering Seiko Mikamiと三上晴子さん

サスペンダーつきの黒革のショートパンツにキャップをかぶった三上晴子さんの姿が記憶に残っている。

どういうきっかけで彼女と出会ったのかは忘れてしまったが、ぼくのニューヨーク生活時代に突如現れたような気がする。そのころの僕の周囲は、サイバーパンクの風潮を図らずも受けていたし、地元のハッカーたちの集まりに行ったりもしていたから、出会うのはある種必然であったかもしれない。

ぼくはアメリカでは、IBMとAmigaのPCを使っていた。当時は、いまでは消えてしまった機種も含めて様々なものがあって、アメリカ製パソコン生活は日本のものともちょっとちがっていて楽しかった。そしてサイバーパンクの世界は小説として楽しんでいた。またSRLサバイバル・リサーチ・ラボラトリのマーク・ポウリンにも当時ぼくが仕事をしていた事務所で会ったし、彼らのニューヨークで最初の大がかりなイベントを取材して日本の情報誌に送ったりもしていた。
しかしそういう状況と自分のアート表現とは結びついていなかった(もちろん技術的にはAmigaを選んでいるように、デジタルな映像やCGに関心はあった)。むしろぼくは、いわゆる美術の文脈のなかでの新しい表現の傾向、例えばジェニー・ホルツァーなどを見ていた(そのころ創刊された「03」というカルチャー誌にホルツァーを紹介する記事も書いた)。

そういうアートとテクノロジーの文化的な境界は不明瞭ながらも、あきらかに「別物」であった二重性は、三上さんに会ってからカオティックに崩れだした。撹拌されて、それまで抱えていたアート観が崩壊したと言っていい。彼女の口から次々と出てくる先端技術の話は、パソコン・オタクの世界からは見えないものだった。どうやって彼女はそれらの技術に、文化性をダイレクトに感じられるのかというのが、最初は理解できなかったが、話しているうちにだんだんわかってきた。
ちょうど彼女の個展があって、その作品制作を眺めたり、単純作業を手伝ったりしながら話した。アパートを探すのを手伝ったり、展覧会作品の写真を撮影したりして、なんだかんだとよく会っていた。
80年代の終わりのころであり、まだインターネットは巷間にはなかった。アナログ・エレクトロニクスが占める領域も大きく、90年代の圧倒的なデジタル化時代を前にして、あえて言えば電気コードを身体に巻きつけてしびれているといった感じのエレクトロニクス文化だったように思う。

ことしのはじめに急逝された彼女のためにICCで3月8日の夜に開催された"RE/membering Seiko Mikami"という催しで、80年代の彼女の作品を見ながら、いろいろなことを思い出した。かなり忘れていたが、ニューヨークと東京の様々なところで彼女と会っていたのと、この頃の彼女の作品の核となるようなものには、ずいぶんと触れていたのだということがわかった。

その後、ニューヨークから帰国した時に東京で会ったりしたが、そのうちぼくは東京に戻り、逆に彼女はニューヨークテックに行くようになって、会うことは少なくなった。しばらくして、ぼくはカーネギーメロン大学で研究員をやることになってすこしの間アメリカに戻り、彼女が大学院に通っているころに、ニューヨークを訪れる機会があって、彼女のミッドタウンあたりにあったスタジオを訪れて、なぜかUNIXの話をしたことがある。

21世紀に入って、彼女が東京に戻ってきてからは、あまり会うことはなかった。多摩美にトークしに行ったり、卒制の講評会で会うことがあったり、YCAMやICCなどで彼女の作品を見に行ったりしたが、ふだんは会わなかった。
とくにこれといった理由はないのだが、気分の変化があって、いまとなって思えば、なんとなくアナログとデジタルのエレクトロニクスの違いのような気がする。80年代はまだシンセサイザーの大半はアナログだったように、CV(電圧制御)で作動するようなリアリティがあった。彼女と会ってたころは、多分に電圧変化で発振するような物理力を感じていた時期だったのではないかと思う。

ICCの集まりで見た写真では、彼女の研究室に、ジョセフ・ボイスのポスターが貼ってあるのに気づいた。ボイスは、ぼくが現代美術を志向していた学生時代から20代のほとんどで影響を与えていた。だが80年代には、トランス・アバンギャルドの流れに出会って、ボイスを忘れた。その後、ドイツなどで展覧会の際に訪れる美術館で、彼の作品を観ても、すでに古臭くしか見えなくなった。

そのボイスが、三上さんの部屋にあった。憶測はいろいろあって、彼が主張していた社会とアートの関係に関心を寄せていたのではないかという純粋芸術的な解釈から、80年代に彼女に会ったころEinstürzende Neubautenのようなインダストリアル/ノイズを好んでいたから、そういうドイツ的な美意識なのだろうか・・・と考えたものだ。
もういまでは彼女にたずねることはできないのだが、なぜジョセフ・ボイスだったのだろう?

それからこのICCの集まりでは、彼女が教えた学生たちが登壇して彼女との思い出を話した。彼女は、学生に対しても丁寧な言葉で話し、権威ぶることがなくて、自分と学生を同等のレベルで接していたそうだ。
やはり彼女もハッカーの態度を基本にしていたんだなと思った。

ぼくと彼女が出会ったころから始まったデジタル技術による変化は、人間がふつうに考えてきたことではとらえきれないほどのものになるだろう。
そういう変化の兆しをアートを通してインスパイアする役割をこれまで三上さんは担ってきたのではないだろうか。
未来への霊感を示していてくれた彼女がいなくなって、いまは周囲にある不可視の知識や情報の空間が微妙にねじれているかのように感じる。

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2015.02.21

歴史主義

「歴史」から現在の物事をとらえる「歴史主義」は、一般的に広く行き渡っている概念だ。もっともその定義は多様であるようだが。

自分のなかにも、歴史主義的な思考方法はあると思う。それは少年のころに影響された歴史観、つまりヘーゲルからマルクスらへとつづく歴史の捉え方が自分のなかでは長期にわたって支配的であった。このような歴史主義は、60年代〜70年代にはごく普通にあったし、いまでもよくあるものだ。

典型的な歴史主義に共通の物言いは、「歴史が証明している」という言葉に表れていたり、「XXに回帰する」などというのもその例だろう。

個人史などのごく身近な歴史で言えば、人の世の世代間での物事の伝播は、だいたい60%前後だと思う。二世代、つまり親子の間ではおよそ60%ぐらいの割合で共有できるものがある。逆に言うと、30%から40%ほどの幅で、世代間では異なる内容や質のものがある。この割合からすると、三世代では、共有できるものは30%ぐらいとなり、70%から80%の幅で、共通しない、あるいは共有できないものが生じる。(これはぼくの当てずっぽうな概算に過ぎないのだが、自分にあてはめるとわりとあたっているような気がする。「親子」というのは、文化的にはほぼ同世代に近いのだ。)

哲学などの分野で言われてきた歴史主義的な捉え方とそれに立脚した方法からは、ぼくは次第に距離をおくようになった。それは1990年代から始まるデジタル技術とそれによる社会の変容を経てからのように思う。
21世紀を形作っているデジタル技術は、過去の技術とは比較できないほどの変化をもたらしている。これは、20世紀以前では捉えきれなかった宇宙のひろがりから、極私的に個人があつかえる空間や時間に関する概念やそれへの感覚を変えたり、言説の伝播のあり方を変え、人間を含めた生物の構造に関する観念を変え、その他にも生活の細部にいたるまでを変えている。

そういうふうに認識することで、ぼくは過去から類推して現在を語るという方法を極力使わずに、現在を分析するように意識を変えている。つまり「事態は常に新しい」と考えることだ。

現在の社会状況は、過去にある、数千年前からつづく宗教観や、20世紀前半に大きな勢力になってしまった全体主義的な傾向の再来などを思い起こさせる。もちろん現象的に似ている事象はたくさんあって、過去のものとの類似性を指摘するのは社会心理学的にはうなずける。例えば、全体主義を生み出すような社会的な条件があれば、やはり同様な現象を生み出しやすい。

ただ問題の解決法は過去に見つけることはできず、現在進行中のものから未来の条件にあったものしか解決は見つけられないものだ。一見すると過去の事象と似ているが、いま起きていることは、現在的なものなのだ。
だから解決するには新しい方法を生み出すしかない。


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2015.01.27

「成長」の概念

経済に関する興味深い書籍が、昨年あたりからつぎつぎと出てベストセラーに選ばれている。すでにかなり話題になっているが、日本では水野和夫の「資本主義の終焉と歴史の危機」であり、世界的には、トマ・ピケッティの「Capital in the 21st Century」だ。
データなどの基礎資料の違いはあるにしろ、おおよそにおいて論旨の構造はよく似ている。またどちらもが、近代から現在の資本主義のあり方、富の分配と格差などにおいて、われわれの経済のあり方の限界を指摘している。
どちらも興味深い本であり、書店に平積みにされるほどの話題の書だ。

自分の経済学的な知識と理解では、基本的な事柄を咀嚼する以外にないのだが、それでも10代のころから経済学の本を読みかじってきたので、強い関心を持ちながら読んだものだ。

ピケティの「資本収益率が経済成長率より高くなる」という指摘は、おそらく現行の資本主義の体制の帰結ともいうべきところにあるのではないだろうか。富が一部に集中していき、中間層が崩壊していく過程が顕著になりつつあることは、すでにかなり周知のことのように現れている。
同様なことは、水野和夫氏の指摘にもある。また彼の指摘で興味深いのは、資本主義が「フロンティア」あるいは「辺境」を失ってきていることを資本主義の終焉の原因とするところであり、それらが無くなるところに現行の資本主義が存立しえなくなりつつあることを言っているところだ。(ヴァーチャルとかサイバーとか、あるいはボディーやマインド、またはスペースとかいうものが、テクノロジー社会のフロンティアのように言われるが、それは富の分配のシステムとしての経済活動としては幻想ではないだろうか。)

ところで、ぼくにとっては、両者の指摘を受けながら、それがどのように社会に関連していくのかを自分の領域であるデザインやアートから考えることになる。
ここのところぼくの関心は、経済の「成長」が限界を迎え、成長しないことが必要になるとしたら、その社会的なイメージをどう描くかということにある。「成長」というのは、そもそも生物的な言葉であり、経済活動といえども、生物的な活動の延長にある。そうすると成長しないということに取って代わる経済活動のイメージは何なのだろうと考えている。

なんの裏づけも確信もないが、生物の自然成長的なイメージから、むしろ時間とか変化などに関する物理学的な概念が次に来るのではないかという気がする。
より高度に抽象化した概念をもって、社会を営んでいく段階に入っているように思う。

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2015.01.01

90年代の「変化」について

1990年代とはどんな時代だったのか。
90年代について、あらためて考えるようになった。(芸術分野での90年代を再確認するきっかけは、英訳されたNicolas BourriaudのRelational AestheticsやPostproducitonや、Claire BishopのArtificial Hells、Shannon JacksonのSocial Works: Performing Art, Supporting Publicsなどの著作に見られる社会と芸術表現のあらたな関係について述べてものの影響でもある。)

この時代は、テクノロジーの観点からすれば、それは明確に区別される時代だ。一言で言えば、あらゆるものがデジタル化し始めた時代である。たとえば人間のDNAの全解析が、この技術によって実現された。これはひとつの例だが、ほかの分野にも大きな影響を与えるデジタル技術の象徴的な事柄だ。
またUNIXという形で特殊に使われていた技術が、その箍(たが)が外れて、インターネットという形で、世界中でグローバルにデータの交換が可能になった。これは世界についての把握、理解を、急速に変えた。

デザインという領域では、いつの時代でも、技術変化からの影響は多大だ。90年代以降、デザインは根こそぎに方法論が変わった。コンピュータが従来の手仕事でやってきたことに大きく関わるようになったし、さらにその後のことだが、オープンなデザインの開発方法が、思考方法も変えている。

アートの領域では、この大きな技術的変化に直接的に反応したのが、電子芸術(さらに言えばデジタル電子芸術だが)であった。
デジタル技術は、人間の知覚や思考にまで影響を与えるものであり、そのインパクトは、蒸気機関、電力、あるいはテレビ放送などの技術と比較しても、その威力は比較できないほど大きい。
技術は社会にたいして大きな影響を与えるが、技術そのものがアートになることは、まずない。蒸気アートや電力アートはないし、テレビ放送も「ビデオアート」という映像アートが、時にテレビにオマージュを捧げたことがあった程度のものだ。
ところが電子芸術は、最新の電子技術によってもたらされている表現方法の拡大を最大限に利用している。
このような技術に対応しながら展開されている表現には、バイオテクノロジーの発達に対応したバイオアートのようなものがある。バイオアートは、先述したDNA情報の把握のように、電子技術の発達によって可能になったものであり、電子芸術とかなり重なった分野でもあるだろう。

電子芸術は、アナログ電子技術があったように90年代以前からもあったが、デジタル技術によって90年代に大きく拡大した。そういう意味では90年代からの芸術であると言っていいだろう。
しかし、電子芸術は、90年代に花開いたものだが、それがアート全体にとって90年代的な内容を決定したものではない。

90年代のもっとも特徴的なことはなにかというなら、「現代アート」という分野の表現の思考方法が、西洋での文脈を完全に逸脱したということだ。
「現代アート」というのは、様式ではなく、思考方法だと理解されるようになった。つまりそれまでのアートは、様式として変遷してきたものであり、基本的には西洋ローカルなものだ。歴史のなかで、建築様式が他の国々に伝播するように、ある地域のアートの様式が他の地域にも伝播してきたが、とりわけ「近代」というのは、西洋の生活様式が世界化したように、ヨーロッパの近代絵画が世界化して、芸術は「西洋的」であることが基本となってしまった。

90年代以降にアートの世界で起きてきたことは、様式ではなく「思考方法」に重点が置かれるようになったおかげで、欧米以外のアートがおおいにとりあげられるようになった。その思考方法というのも、それまでの芸術表現の諸潮流の主張などともちがって、個人がどのように考えたり、彼らがとりもつ諸関係にどのように関わるかという方法論みたいなものに関心が持たれるようになった。そしてその個人というのは、西洋的な文化からも離れて、アジアでも、アフリカでも、南米でも、世界のどこにいてもアーテイストが持つユニークな思考方法が注目されるようになったのだ。(日本のオタク文化やそれと同調したアートの流れも、当然のことだが、日本的なユニークさを象徴していた。)

21世紀初頭もかなり過ぎて、この世紀の文化について思考する時、その発端は90年代に見ることができるのだ。

ここしばらくは、この時期についてもう少し検証してみたい。渦中にいると見えないものが、いまになって見えてきているからだ。

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2014.11.30

雨傘革命

進行している大きな革命に遭遇する機会は、滅多にあるものではない。(もちろん微小な革命は、気づくか気づかぬかは別として、日常的に進行しているものだが)

デザインの会議のために訪れた香港での余裕のない日程だったが、帰国する日の朝に、学生たちが占拠している地区を訪れることができた。

まず到着したときの印象は、思慮深く実行されている活動だということだ。ある自主的な規律があって、整然とした様子は、学生たちの人生に深く関わってくる状況に対して、真摯に取り組もうとしていることの表れなのだろう。
占拠地区には、たくさんのテントが並んでいて、この一つの地域だけでもかなりたくさんの学生たちが住みついているのがわかる。そこには、学習室のブロックが作られていたし、講師がやってきて自主講座のような「授業」も行われていた。またリサイクルも徹底しているし、あらゆる日常的に必要なことがらは、共同で管理されていた。

日本のかつての大学紛争や、また文化大革命の紅衛兵たちの活動は、多くはひたすら「破壊」的だったが、現在の香港の雨傘革命に参加している香港の学生たちの活動は、むしろオープンとか、オルタナティブという言葉で表現したほうが適切であると思う。あるいは「自律的」という言葉が正しいのかもしれない。

中国政府のロジックは、巧妙かつ強硬な政治権力の運用であり、そのハードライナー的な要素が強くなれば、この小さな革命は木っ端みじんに粉砕されてしまうのは明らかだ。だが一方で、この革命は、世界の自由な人々とのネットワークとの上の微妙にバランスがとれたところにもある。一見すると脆弱そうに見えるが、意外と強い力に支えられているようにも見える。

案内してくれた学生が道をふさぐバリケードは、とてもしっかり作ってあると説明してくれた。だが。それはどう見ても機械力の前には簡単に取り除かれてしまうものにしか見えない。実は、この占拠も、ちょっと前なら簡単に一掃されていただろう。だが、いまは、そうはいかない。「世界の目」が見ているからだ。(いったい、この「世界の目」とは何だろう?)

ここが破壊されたなら、歴史は数十年戻ってしまうような気がする(実際には、歴史が戻るということはないのだが)。
中国にとっても、ここを破壊するということは、自らの首をしめることになりかねないところにあるのだ。それに気づいている人が中国政府のなかにもいるかもしれない。

雨傘革命は、そこに参加している人たちが思い描く以上に、21世紀に大きな影響を与えるだろう。

占拠地区の無数にあるテントの群れのなかを歩いていて、とても胸が熱くなるのをおぼえた。


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2014.10.30

芸術物語

芸術史にまつわる「物語」は多々あるが、社会史から見た「同時代性」を共有したものが多い。

その典型はロマン主義。18〜19世紀の西欧近代のロマン主義は、文学、美術、音楽、そして政治までを含めた芸術物語の典型の一つだ。まさにロマンチックで革命への思いをはらんだ熱い感情が、国を越えて広がっていった文化だ。このロマン主義な衝動は、その後も波紋のようにつながってきた。

芸術には常に物語があり、物語があってこそ「名作」は世に知られ、残っていくものだろう。文学、美術、音楽などの個別のジャンルの歴史でも、物語られてきたものである。

しかし、1990年代以降にポストモダニズムの傾向が顕著になって、芸術諸分野における歴史性をおびた物語は、ほぼ消滅してしまった。
それまでの芸術は、ある強固なストーリーで解釈していれば良かったし、それが所属する大きな物語の変遷を語る歴史が存在していた。
近代のロマン主義、自然主義、象徴主義、超現実主義あたりまでは、文学、美術、音楽は、ある物語を共有していた。美術と音楽の関係でも、ミニマリズムあたりまでは、共有する明確な物語的な内容を持っていた。
だが1990年代以降の芸術は、とくに大きな物語では語ることができなくなった。美術史は、80年代までは、ある主要な特徴をもった傾向を連ねて説明することができた。その最後はコンセプチュアリズムあたりだ。
80年代の抽象表現主義的なリバイバルは、単に市場的な需要によってもたらされたものだし、中国の現代美術作品のブームも、「社会主義」の「物語」を利用して市場的な興味をもとに作られたものだ。もっとも後者は、欧米を中心とした美術の物語の面白みが失われてしまった時代に登場し、欧米以外の地域の物語を世界市場に持ち出すきっかけとなっており、非西洋の物語の始まりとしてのストーリーを提供している(もちろんそこには非西洋圏の経済の拡大ということもある)。
日本の美術作品も、「オタク文化」というある意味突出したポストモダン的な傾向に特化したものがとりわけ注目されたのも、そういう物語に価値があるからだ。

近現代美術史を語ってきた方法は、しばらく前までは有効であったが、現在直下の状況を語るにはあまり手がかりにはならないだろう。
ただ物語の消費というあり方さえも、いっぽうでかなり「消費」されていて、それでもけっきょく芸術は新たな物語を期待されている。

それがあらたに書けるかどうかは、アーティストの課題。


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2014.09.27

データが支える国家史

人間は「サル目としては極めて大型の種」であると説明されると、そうか、自分はサルからの発展形なんだなと思う。

生物種としてサルから分かれて人間として歩み始め、さらに「社会」を形成してきた。その社会は、仔細に内容がわかるものはまだ六千年ほどのものだ。また文字による記録によって、その社会制度がどのようなものであったかがわかる。

昨今の東南アジア、極東での国家間の領土問題で、領土の所有がどの国に属するかというやりとりが、古代の資料が根拠とされているのは、きわめて「21世紀的」なことだと言える。なぜなら20世紀は、そのような古代史に示された領土の定義で、領土を確定しようなどとは考えられなかった。世界に近代国家が60カ国ほどあるだけで、その他の部分は植民地か属国のような20世紀前半までは、国家の主権にもとづく領土というのは、限られた範囲にしかなかった。
1934年に発効した「国家の権利及び義務に関する条約(モンテビデオ条約)」の,第1条では「国家の要件」は:
1 永久的住民
2 明確な領域
3 政府
4 他国と関係を取り結ぶ能力
と定義している。
第二次大戦後は、次第に多くの国が独立し、独立国家の数は、かつての三倍を越えている。ただこれまでのところ、国家の「明確な領域」は植民地時代に定められたものが色濃く残っている(とりわけアフリカ)。

いまこのような枠組みを変えて領土を確保するのは、資源の確保が動機になることが多い。つい最近のスコットランドの独立騒動は、いまさら英連邦から脱退することなど、あり得そうもないところに起こったことで、その背後には資源問題があった。もともとスコットランドの独立というのは、文化的な背景をもって政治にもいくらかの影響はあったが現実性はとぼしかったものだ。

アジアで起きている領土問題も、ほとんど資源問題が中心であるが、それが文化や民族主義などの装いを持っている。ある場所が、自分が所属する国家とその民族のものであったことを示す文献が、現在、再度、意義を持ち出しているのは、人類史的に考えても面白い。(このようなことを機に、古代史の地政学的な意味を問うことが盛んになった。)

このように現在の社会の背後にあるのは、文字で示された歴史主義なのだ。未来主義があるならば、古代主義ともいうべき価値観があるだろう。

歴史というのはデータの積み重ねであり、そのデータをうまく使うのが、現在の国家に必要な技術だ。古代史データは、現在のビッグデータのように利用価値がある。

国家はいつもデータで支えられている。

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