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2015.01.27

「成長」の概念

経済に関する興味深い書籍が、昨年あたりからつぎつぎと出てベストセラーに選ばれている。すでにかなり話題になっているが、日本では水野和夫の「資本主義の終焉と歴史の危機」であり、世界的には、トマ・ピケッティの「Capital in the 21st Century」だ。
データなどの基礎資料の違いはあるにしろ、おおよそにおいて論旨の構造はよく似ている。またどちらもが、近代から現在の資本主義のあり方、富の分配と格差などにおいて、われわれの経済のあり方の限界を指摘している。
どちらも興味深い本であり、書店に平積みにされるほどの話題の書だ。

自分の経済学的な知識と理解では、基本的な事柄を咀嚼する以外にないのだが、それでも10代のころから経済学の本を読みかじってきたので、強い関心を持ちながら読んだものだ。

ピケティの「資本収益率が経済成長率より高くなる」という指摘は、おそらく現行の資本主義の体制の帰結ともいうべきところにあるのではないだろうか。富が一部に集中していき、中間層が崩壊していく過程が顕著になりつつあることは、すでにかなり周知のことのように現れている。
同様なことは、水野和夫氏の指摘にもある。また彼の指摘で興味深いのは、資本主義が「フロンティア」あるいは「辺境」を失ってきていることを資本主義の終焉の原因とするところであり、それらが無くなるところに現行の資本主義が存立しえなくなりつつあることを言っているところだ。(ヴァーチャルとかサイバーとか、あるいはボディーやマインド、またはスペースとかいうものが、テクノロジー社会のフロンティアのように言われるが、それは富の分配のシステムとしての経済活動としては幻想ではないだろうか。)

ところで、ぼくにとっては、両者の指摘を受けながら、それがどのように社会に関連していくのかを自分の領域であるデザインやアートから考えることになる。
ここのところぼくの関心は、経済の「成長」が限界を迎え、成長しないことが必要になるとしたら、その社会的なイメージをどう描くかということにある。「成長」というのは、そもそも生物的な言葉であり、経済活動といえども、生物的な活動の延長にある。そうすると成長しないということに取って代わる経済活動のイメージは何なのだろうと考えている。

なんの裏づけも確信もないが、生物の自然成長的なイメージから、むしろ時間とか変化などに関する物理学的な概念が次に来るのではないかという気がする。
より高度に抽象化した概念をもって、社会を営んでいく段階に入っているように思う。

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2015.01.01

90年代の「変化」について

1990年代とはどんな時代だったのか。
90年代について、あらためて考えるようになった。(芸術分野での90年代を再確認するきっかけは、英訳されたNicolas BourriaudのRelational AestheticsやPostproducitonや、Claire BishopのArtificial Hells、Shannon JacksonのSocial Works: Performing Art, Supporting Publicsなどの著作に見られる社会と芸術表現のあらたな関係について述べてものの影響でもある。)

この時代は、テクノロジーの観点からすれば、それは明確に区別される時代だ。一言で言えば、あらゆるものがデジタル化し始めた時代である。たとえば人間のDNAの全解析が、この技術によって実現された。これはひとつの例だが、ほかの分野にも大きな影響を与えるデジタル技術の象徴的な事柄だ。
またUNIXという形で特殊に使われていた技術が、その箍(たが)が外れて、インターネットという形で、世界中でグローバルにデータの交換が可能になった。これは世界についての把握、理解を、急速に変えた。

デザインという領域では、いつの時代でも、技術変化からの影響は多大だ。90年代以降、デザインは根こそぎに方法論が変わった。コンピュータが従来の手仕事でやってきたことに大きく関わるようになったし、さらにその後のことだが、オープンなデザインの開発方法が、思考方法も変えている。

アートの領域では、この大きな技術的変化に直接的に反応したのが、電子芸術(さらに言えばデジタル電子芸術だが)であった。
デジタル技術は、人間の知覚や思考にまで影響を与えるものであり、そのインパクトは、蒸気機関、電力、あるいはテレビ放送などの技術と比較しても、その威力は比較できないほど大きい。
技術は社会にたいして大きな影響を与えるが、技術そのものがアートになることは、まずない。蒸気アートや電力アートはないし、テレビ放送も「ビデオアート」という映像アートが、時にテレビにオマージュを捧げたことがあった程度のものだ。
ところが電子芸術は、最新の電子技術によってもたらされている表現方法の拡大を最大限に利用している。
このような技術に対応しながら展開されている表現には、バイオテクノロジーの発達に対応したバイオアートのようなものがある。バイオアートは、先述したDNA情報の把握のように、電子技術の発達によって可能になったものであり、電子芸術とかなり重なった分野でもあるだろう。

電子芸術は、アナログ電子技術があったように90年代以前からもあったが、デジタル技術によって90年代に大きく拡大した。そういう意味では90年代からの芸術であると言っていいだろう。
しかし、電子芸術は、90年代に花開いたものだが、それがアート全体にとって90年代的な内容を決定したものではない。

90年代のもっとも特徴的なことはなにかというなら、「現代アート」という分野の表現の思考方法が、西洋での文脈を完全に逸脱したということだ。
「現代アート」というのは、様式ではなく、思考方法だと理解されるようになった。つまりそれまでのアートは、様式として変遷してきたものであり、基本的には西洋ローカルなものだ。歴史のなかで、建築様式が他の国々に伝播するように、ある地域のアートの様式が他の地域にも伝播してきたが、とりわけ「近代」というのは、西洋の生活様式が世界化したように、ヨーロッパの近代絵画が世界化して、芸術は「西洋的」であることが基本となってしまった。

90年代以降にアートの世界で起きてきたことは、様式ではなく「思考方法」に重点が置かれるようになったおかげで、欧米以外のアートがおおいにとりあげられるようになった。その思考方法というのも、それまでの芸術表現の諸潮流の主張などともちがって、個人がどのように考えたり、彼らがとりもつ諸関係にどのように関わるかという方法論みたいなものに関心が持たれるようになった。そしてその個人というのは、西洋的な文化からも離れて、アジアでも、アフリカでも、南米でも、世界のどこにいてもアーテイストが持つユニークな思考方法が注目されるようになったのだ。(日本のオタク文化やそれと同調したアートの流れも、当然のことだが、日本的なユニークさを象徴していた。)

21世紀初頭もかなり過ぎて、この世紀の文化について思考する時、その発端は90年代に見ることができるのだ。

ここしばらくは、この時期についてもう少し検証してみたい。渦中にいると見えないものが、いまになって見えてきているからだ。

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