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2013.12.17

極意と暗黙知

「切り結ぶ刃の下こそ地獄なれ踏み込み入ればそこは極楽」
よみひとしらず


暗黙知とは「知識というものがあるとすると、その背後には必ず暗黙の次元の「知る」という動作がある」ということを示した概念である。(Wikipedia)


武術の極意というのは、おそらく暗黙知の極地ではないかと思う。これまでの歴史上の達人たちが、その到達し知識の地平を、凡々とした弟子や一般人に伝えようという困難な努力して、さまざまに書き残している。もちろん口伝もあるが、伝えようとすることじたいは、暗黙知にある。

自転車の乗り方の例が、暗黙知の説明によく取り上げられるが、自転車の乗り方を記述したり、口述したりすることはできても、またそれを読んだり、聴いたりして、内容は理解できたとしても、それですぐに自転車に乗ることはできない。腕とハンドルに対してどのようにかまえ、足をペダルにどう乗せ、そして身体はどのようびバランスを取るかをさんざん述べて、そして理解しようと努力する受けてはその文句を頭に叩き込んでも、それでも自転車に乗れるわけではない。ただ自転車に乗る練習をしているうちに、そのうち乗れるようになる。そして乗れるようになれば、その後もほぼ一生、自転車に乗ることができる。しかし、その乗り方を知識として伝えようとしても伝えることはできないものだ。

王宗岳の「太極拳経」は、太極拳という、武術としてはとてつもなく修得に時間のかかる複雑な武術の要点をかなり適切にまとめてうたいあげたものだ。
これ以外にも、幾多のこの武術の要点を記したものがある。しかし、それらがとても合理的にうまくまとめてあっても、それを読んだけでは理解、いやこの場合は体得することはできない。

「立てば平準の如く、動くと車輪の如し」というのは、太極拳の境地を示した言葉だ。未熟な段階ではあっても、このことを念頭に置くかどうかで、その境地まで達するかいなかの鍵がここにあるだろう。だが、これは自転車乗りの教訓のレベルでは到達できないものである。しかし、自転車乗りと同じ方法論にあるものでもある。

おそらくこれは他の武術でも同じことが言える。また職人の勘とか技にも同様なものを見ることができる。
人間の社会には、文字や言語で伝えきれない暗黙知のネットワークがあるように思える。それは「感じる」ことを通してしか知ることができないようなものだ。

すごいものは、みんなファジーfuzzyだ。

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