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2013.10.14

生存可能性

自分のなかの「動物性」というのが気になる。自分だけでなく、むしろ現生人類の「動物性」かもしれない。

動物学者たちは、動物を研究することで、人間のあり方と対比することがあるだろうし、さらに霊長類の研究となると、ほぼ人間と重なった部分が大きい。

「サステナビリティ」について考察していると、自分の場合は、どうしても生物進化の結果としてのホモサピエンスとそれが形成してきた「社会」というところから始めないと気がすまない。(これは少年期に読んだ「ドイツイデオロギー」などの書物の影響のような気もする。キリスト教の小学校に行ったので、宗教の時間の教員であった修道女が、「猿が人間に進化するわけないでしょ、上野の動物園に行けばわかります」という話には、子供心に不信がつのったものだ。それが後に「唯物史観」を育んでいったのかもしれない。もちろんこれは今では19世紀的な限界のなかで理解している。)

「サステナブル」という言葉は、一般的には「持続可能」と訳され、「サステナビリティ」は、「持続可能性」と訳される。それでも日本語のニュアンスでは、完全に意味を伝えきることができないので、カタカナで表記されるようだ。(これは「リサイクル」という言葉も同じで、「再循環」とはほぼ言わない。中国語では一般的には「再利用」と訳されるようだが、この訳も十全とは言えないだろう。)

ぼくは最近は、「サステナビリティ」を「生存可能性」というニュアンスで使っている。通常のサステナビリティは、現在の生活や生産のあり方を、生態系や地球環境の保護の観点から変えて、持続していけるようにするといったことで、人類の課題として語られるものだ。つまり類としての人間の課題のようなニュアンスが強い。
生存可能性というと、逆に、むしろ個人が生きていくことからのニュアンスが強調される。例えば、火の利用は、人間の生存に必要なものであった。火を利用することで、主食の料理や、土器などの道具が生まれるのだが、まず初めは暖をとるようなことから開始されたのだと思う。
「火」というのは、サステナビリティを語るのにシンボリックなものかもしれない。火は太古から現代まで使われてきたし、大筋ではその利用方法は変わっていない。しかし、その規模や量によっては、かなりの違いが出てくる。地球温暖化の原因である化石燃料の使用は火であるし、熱帯雨林を破壊している焼き畑農業も火の利用だ。
火は、小規模で使っている間は、きわめてサステナブルであり、生存可能性を維持するものだ。だが、それが大規模な経済に見合った生産性に応じて使っていくと、二酸化炭素の大量放出や、生態系の破壊につながってしまうのだ。

個人の観点からサステナビリティ、つまり生存可能性を考えると、現代社会が抱える諸問題に関わってくる。予測不可能性に満ちた社会のなかで自分が生存していくことは、かなりの難題だ。社会も産業も20世紀的なあり方では理解できない。そこには人間と機械の軋轢なども入ってくる。
社会のなかで生存していくのが困難になっていく時代に、サステナブルに、つまり生存を可能にすることを考えるべきである、90年代から一般化してきたサステナブルなあり方は、個人の生存を巡って、これまでとはかなり異なるフェーズに入っていくだろう。

これまで無関心であった人さえも、生態系の破壊は、人間の個人の生き方の破壊につながっていることを気づくだろう。

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