原点:神田
神田の真木画廊、田村画廊の山岸信郎さんが亡くなられて数週間経つ。神田は、自分にとってまさに原点であり、山岸さんとその画廊無くして、ぼくの現在は考えられない。
八王子の美大の学生だったぼくは、毎週、都心まで出て画廊をまわっていた。銀座の画廊から始まって、京橋、日本橋を抜けて、最終地が神田で、真木画廊、田村画廊、ときわ画廊が画廊めぐりの終着地だった。
画廊まわりは、わくわくして毎週楽しみだった。あんなにわくわくしながら画廊をまわっていたのは、その後、世界の様々なところに住んだり、訪れたりしたが、滅多にない経験だったと思う。
なにしろ、ある時は、画廊の床のコンクリートが道路工事のカッターで穴を開けられていたり、いつでもまさに「反芸術」の見慣れないものが並べられ、近所の公園ではパフォーマンスが行われていたり、様々なものを体験した。
画廊では、先輩にあたるアーティストたちの会話を横で聞いていて、そこには学校では学べないことが山のようにあった。「構造主義」もここで知った。熱い話は、画廊から神田の安い飲み屋に移ってさらに議論が続いた。同年代の現代美術をやっている学生たちとも知りあった、多摩美以外には、日大芸術学部やBゼミの学生が多かったし、東京芸大や美学校の学生とも知りあった。
画廊で出していた「展評」という印刷物は、B6紙サイズほどの小さなものだったが、そこではアーティストたちがお互いの作品を批評しあっていた。そしてその展評の内容でまたお互いに論争したりもしていた。(個人的にもっとも記憶に残るのは、同年代のアーティストで絵画表現で活躍していた諏訪直樹さんとの紙上での論争だ。彼はぼくがアメリカに住んでいる時に亡くなったが、彼との思い出としてもっとも記憶に残っている。)
自分の70年代のインスタレーション作品の代表的なものは、真木画廊と田村画廊でやった。田村画廊は、移転したばかりの新田村画廊と呼ばれていた時に、山岸さんが企画してくれたものだ。会期中にポンピドーセンターの館長だったポンテュス・フルテン氏が来て、富山県立近代美術館の開館展へとつながっていった。
また長年の友人であると同時に、身体とロボティクスについて開眼させてくれたステラークにもここで会った。先日、彼に山岸さんの訃報を知らせると、とても悲しがっていた。彼にとっても、神田はやはり原点のようなものだと思うし、山岸さんの精神的な太っ腹はとても彼の日本での活動にとって重要なものだったに違いない。一回目の横浜トリエンナーレの準備のための下見が前年にあったころ、神田にあった山岸さんの事務所をステラークと訪れた。それがぼくが山岸さんとお会いした最後のときだ。
韓国の若いアーティストたちと自主的に展覧会を東京でやったときにも相談にのってもらった。まだ韓国との交流が少ないときだった。その展覧会を企画し、いまは東京外語大学の韓国語の教授となっている野間秀樹さんや、アーティストの池田徹さんとも、ここで会ったし、その展覧会で知り合った韓国のアーティストのリー・サンナムとは、80年代にニューヨークのブルックリンで同じビルに住んだりした。
考えてみると英語も、ここでおぼえたかもしれない。ステラークのパフォーマンスを手伝ったし、当時、多摩美の大学院に留学していたサンフランシスコのアーティストが企画した東京と西海岸のアーティストの交流展の手伝いなどで、外国に行った経験がないのに英語が少しでも話せるようになったのも神田での副産物だ。
いろいろと思い起こしてみると、ますます神田が原点だったのだと強く思える。これは単に自分の体験の回想だということではなくて、現在のアートシーンと比べると、ずっと小さな状況であったかもしれないが、それでも世界に誇ってもいい強力なアートシーンが存在していたことは断言したい。そしてその要のところに、頑強に独自の道を貫いていた山岸さんがいたのだ。
いまの神田の日本橋側には、真木画廊、田村画廊、ときわ画廊もなく、熱いアートの日々を伝えるものはないが、かつてそこに存在していた。
神田、KANDAのアートシーン。ここでのアートを思えば、いまのアートシーンなど無風状態のようなものだ。

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