フィクション
目前に起こっていることを見極めるのは難しい。多くの場合、過去と照応して見極めようとする。しかし新しい事態というのは、過去をたずねて見つかるものではない。
現在はかなり大きな転換点であるだろう。が、むしろずっと「転換点」であるようなところに人間の歴史が入っているかもしれない。歴史の変化、あるいは進化と言ってもいいかもしれないが、これは加速化しているということは、確実なことで、これを過去の尺度で測ろうとしても無理だ。
もしも仮に、そのような変化を感じることがきでない地域があるとしたら、そこはむしろ没落の方向に向かっていると言ってもいいだろう。それは地域だけでなく、人の認識も同様だ。認識が滞るということはおそらく不断にあるだろう。人間の認識はそう簡単にアップデートはできないからだ。
また個人の資質の問題だけでなく、現在を決定する要因は、同時に多地域、多領域で起こるからであり、それをつかみ取るのは至難だ。もちろん情報の流れは急速に展開しているので、いたちこっごの様だが、マルチな言語感覚があれば、世界同時/多領域に情報をつかみとっていくことも基本的には可能だ。
伊藤計劃の小説を読んだ。ぼくは、ふだんはあまり小説を読まないだが、彼の小説にはまった。なぜそれにはまったのかというと、それは彼のストーリーの切り口だ。
ぼくが彼の小説のなかで感じるのは、現実も小説と同じくらいにフィクティブだということで、彼はそのスタンスで小説を書いたということだ。
いま一般的に書かれているシナリオ、つまり各国の政府や国際組織などが書いたシナリオは、話のつじつまをあわせるためのG8のような「サミット」というのは、調整的なフィクションのようなものであるということだ。それは国際政治のような目に見えやすい、あからさまなストーリー展開だけにあるのではなく、ソーシャルネットワークが「民主化」運動を促進しているというようなストーリーにも書かれているものも含まれている。
そういうフィクティブな要素というのは、いつも政治が利用するもので、豊かな生活をめざすハッピーな生活水準の目標から、領土問題のような愛国ストーリーが書きやすいものまで、たくさん出揃っている。
そのフィクティブなことをどれだけうまく活かすかというのが、大衆政治の盛り上がりの秘訣でもある。ファシズムも、自由主義も、そのほかなんでも、フィクティブなもので操作するのが「政治」である。
このあたり、はやく気がつくといいだろう。クリティカルな考えがもっと広がると世界は次のステージに入れるのだが。


