山中信夫の1971年のフィルム作品「川を写したフィルムを川に映す」が、6月18日に多摩美の上野毛校舎近くの河原で再現された。正確に言えば、山中信夫がディレクションして美共闘Revolution委員会が制作したものだ。
生前の山中さんは、いつも静かに微笑んでいて、いろいろな意味でラジカルな多摩美の先輩たちともちょっと違った雰囲気の持ち主だったのだが、それは多摩美の闘争が「終息」してしばらく経ってから会ったからなのか、生来のものなのかは知らないが、おそらく後者だと思う。
34歳の若さで夭折されたので、あまり話す機会はなかったのだが、山中さんのことは、周囲の人々から伝説のように聞かされていたし、多摩美の教授であった美術評論家の東野芳明さんの口からも、よく名前が出ていた。
山中さんが滞在先のニューヨークで急逝された後、水道橋の全水道会館で追悼の集まりがあった。たくさんの人が集まったのを憶えている。集会の最後で、いきなりビートルズの「マジカル・ミステリー・ツアー」がかかったのが、とても鮮烈だった。この曲で、彼の生と死を納得させてしまうほど、ぴったりの演出だった。ビートルズの曲で、これほどしっくりと気持ちがあったのは後にも前にもない。
1971年に実施された「川を写したフィルムを川に映す」は、わずかな観客しか集めることはなかったが、東野さんが紹介して、思わぬところまで広がった。
ぼくは大学を出た後は、アートをやりつつも、広告業界の真っ只中にいたのだが、ある日、有名なアートディレクターが書いているエッセーのなかで、このイベントのことが語られていたのを見つけた。彼は、このイベントのことを知って、川に川を映すなんて、アートをやっている人は、おもしろいことをやるものだと思ったそうだ。広告業界で、アイデアをふりしぼっていた時期でもあって、山中さんを知っていただけでなく、アーティストでもある自分のことも勝手にだぶらして喜んだものだ。
この日、ふたたび多摩川に投影された映像を目の前に見ていて、当時の「反芸術」的な傾向で読み解くよりも、むしろかなり複雑な構造を感じた。まずフィルムの撮影場所は上流であり、撮影時間は昼間であり、それが二子玉川の河原で夜間に上映されたものだ。川の流れの速さは上流と下流では違っていて、川面には、速度の異なる水流を同時に見ることになる。
単純に考えてもそこには時間と空間の移動というか、ワープみたいなものがあった。そういう光学的に風景を変化させる衝動があって、それが後にピンホールの作品につながっていったように思う。
最近、Situationistの文献をいろいろと読んでいるのだが、彼らの活動がどのようにして終息していったのかという視点からも読んでいる。同様に、文化活動でもあった全共闘がどのように終息したかを考えるのにもつながる。
また、あまり大きな成果をもたらさずに消滅してしまったかのようであるそれらの活動であっても、一条の光として残っているものは何かと考えてみる。その光がこれからまた拡がっていくことはあるのだろうか。
山中さんの作品のピンホールからの光は、そういう意味でもシンボリックだ。